【過去在籍クラブ】 |
年度
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所属クラブ
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1976-84
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マリツァ・プロフディフ
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1984-85
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ヘブロス・ハルマンリ
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1985-90
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CSKAソフィア
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1990-95
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バルセロナ(スペイン)
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1995-96
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パルマ(イタリア)
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1996-98
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バルセロナ(スペイン)
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1998
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アル・ナスル(サウジアラビア)
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1999-00
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柏レイソル(日本)
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2000-02
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シカゴ・ファイアー(米国)
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2003
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ワシントンDCユナイテッド(米国)
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【紹介文等】
強靭な肉体と繊細な足技を持ち、力強い左足を武器とするブルガリアサッカー史に残る名選手。その左足のキックにより正確なパス、チャンスメイクのほか、自身による得点能力も秀でていた。
ブラジルの王様は気性が荒く、問題発言も多いトラブルメイカーでもあった。CSKAソフィア時代には無期限の出場停止処分も受けた。
そんな彼の才能を遺憾なく発揮させたのがバルセロナの監督クライフであった。当時のバルセロナには彼のほかにロマーリオといったトラブルメイカーもいたが、彼らを上手く舵取り、その才能を爆発させた。その結果バルセロナはリーグ4連覇を達成し、91/92シーズンにおいてはチャンピオンズ・カップ制覇も成し遂げた。
彼はクライフ政権の下、バルセロナの黄金期を担った偉大なる一人である。
また、1994年ワールドカップにおいては弱小国と言われるブルガリアをベスト4にまで引き上げる大活躍をし、自身6得点の得点王に輝く。更には同年のバロンドール受賞者ともなり、彼が最も輝きを見せる年となる。
その後、いくつかのチームを経てJリーグ柏レイソルへとやってくる。バルセロナ時代の輝きはなかったものの、その正確な左足は依然として健在であり、その存在感の大きさにはまさに感服であった。
トラブルメイカーとしてサッカー選手を過ごしてきた彼にはスペインのNGOの紹介で養父となり、第三国の恵まれない子供に寄付をしていたという一面も持っていた。
ワンマンで気性が荒いことは確かだが、その内面には心優しい人格者という一面もある。
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